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【ながたに】ベタ降りしててなぜ最後に無筋を切るのか

人生は、よく色々な事に例えられます。

人生の中で経験することに、人生をあてはめる、という若干矛盾しているような行為ですが、漠然としすぎて掴みづらい人生という概念を、誰もが客観的に共感できることに例える、という作業はあながち無駄ではないのかもしれません。

だいたい多数派の共感を得られるのが、山登り。

富士山なんかはよく使われます。

「ここは人生の五合目やで!」といえば、とりあえず車とか観光バスでもこれる所。大体モラトリアムの終着あたり、といった所でしょうか? いや、状況によっては義務教育の終わりくらい? とりあえずあまり深く何も考えなくても、ここまでは進める、といった所。

かといって自動的にそこまで道が続いていたわけでもなく、バスに乗ってくるにしろ、自分で車を運転してくるにしろ、決して平坦な道ではない。れっきとした登山道。
もちろん下から歩いてくることだってあるわけで、その険しさは千差万別。

さて、「八合目や!」と言われたら、どんな状況を思い浮かべるでしょうか。

まだまだ頂上までは遠い。しかし八合目には山小屋もいくつか存在し、実はご来光などを拝むには頂上よりも適したスポットだったりもする。
ある意味人生の到達点、といっても良いところ。

それは就職を決め、ある程度の出世をし、生涯の伴侶を得て・・・

これ以上発展はない。あとは維持をする。そんな所か。

維持だからといって、歩みが止まるわけではないし。

じゃぁ頂上は?

つらい思いをして、たどり着いた頂。

ある意味、終着点。目標の到達地点。

でも、頂上だからって人生の終わりではない。

登山があれば、下山がある。

実は頂上よりも美しい景色、すばらしい体験が下山中にもあるかもしれない。

この、かもしれないというのがちょっとポイントで。


つまるところはどんなに人生を客観的に例えようとしても、実際に生きてみないと、わからない。


ここまで行けば、こうなるよ、とか。

この先にはこれだけまだ道があるよ、とか。


そういうのは、実は誰もわかってない。

そして誰もわかることができない。



だから人生は面白い、とも言うのだろうが


同時にだからこそ、不安で不安で仕方なくなる。


その不安をかきけしてくれるのは


先にある情報が明確な形で手に入ることなのか

はたまた

自ら進み続けることなのか



それはわからない。

けど、この先何があるかなんて、明確にわかるものは、現実ではまず、ない。


例えば電車ひとつとっても、確実ではない。

確かに行き先決まった列車に乗れば、規定の時間乗っていれば、目的地に、たどり着く。
多少の乗り換えの煩雑さはあっても、時間がたてば、必ず、目的地に時間通りに


着くのだろうか?


一駅先で、信号トラブルが起こる可能性は?

突然脱線してしまう可能性は? 停電は?
そもそもあなたがその電車から追い出されてしまう可能性だて、0ではない。


極論ですが、そういうことであって。

あなたは今日夜眠り、朝になったらおきて新しい一日を迎えられる保障はない。

非常に

不確定な要素の中で


多くの可能性を含んだ中に

生きている。

当たり前のことだけど


そう考えれば

実はあんまり将来とか悩む必要はないはずなんだけど


わからないのが当然だから

わからないことを不安に感じる必要はないはずなんだけど


なぜか

わかろうわかろうとして

不安になる。


でも、社会という枠組みがあって

存在の中にいる限りは

わからないなりに

不確定ながらも、ある程度先を見通す必要が、ある。


よって

不安になる。

そういうことなのでしょうか。


よく、


わからないです。






今日は2ヶ月ぶりくらに、ゲーセンというものに行きました。

ほんときまぐれで、特にやることないけどふらっと立ち寄って、んで麻雀しました。

東一で、満貫放底しときました。


あぁ、私の100円は、5分で消えた、の。
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